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長谷部信連
「長谷部信連 以仁王見送りの図」(部分)
穴水町歴史民俗資料館蔵
 長氏の始祖長谷部信連は、源平争乱の時代を生きぬいた鎌倉武士として、日本の歴史上でも著名な人物である。『長家家譜』によれば、信連は久安三年(1147)1月16日、遠江国長邑(現在の静岡県浜松市付近)に、長馬新太夫為連の子として生まれ、のち大和国(奈良県)に移り住み、やがて、近衛・後白河の両帝に仕えて左兵衛尉に任ぜられたとある。

 『平家物語』の「信連合戟」の項には、源平合戦の端緒となつた高倉宮以仁王(もちひとおう)・源三位頼政による平家打倒の挙兵に際し、当時以仁王(後白河天皇の次子)隷属していた信連が、王を近江の三井寺に避難させたあと、ひとり館に止まって来襲した平家の軍勢に立ち向かい奮戦した模様が克明に描かれており、信連をして後世その武勇の名を高からしめたのは、この事件における活躍ぶりによるところが大きかった。

 信連はやがて、平家方に捕縛されたのちに、その剛勇を憎まれて死罪を免れ、伯耆国日野(現在の鳥取県日野郡日野町付近)に配流されたが、世は平氏の時代から源頼朝の鎌倉幕府開創にともなう源氏の時代へと転換したため、かって源氏に組みした縁故により、頼朝の側近土肥二郎実平を頼って鎌倉御家人に列し、安芸国(広島県)の検非違使に補任され所領を給わった。ここに信連は、新時代の鎌倉武士として、再び登場する。『長家家譜』によれば、やがて信連は、文治二年(1186)6月23日、頼朝から能登国大屋庄(現在の輪島市から鳳至郡穴水町にかけての地域)の地頭職に補任され、能登に下国したといわれ、以後同庄を中心に、能登長氏発展の礎を築いた。

 鎌倉幕府の公用日記である『吾妻鑑』の建保6年(1218)10月27日の条によれば、「今日左兵衛尉長谷部信連法師、能登国大屋庄河原田に於いて卒す」と見え、その死を伝えている。なお穴水城の山麓に鎮座する長谷部神社には、信連自作と伝える肖像が御神体として祀られており、輪島市山岸町には、信連の墓所がある。また、穴水湾に繁殖する「御所守」(貝)・「信連蟹」が、信連の能登入部に際し、鎌倉の由比ガ浜から移されたという伝説や、加賀の山中温泉が信連の再興にかかるという伝説をはじめ、祈願所の穴水の来迎寺・平野八幡神社・美麻耶比古神社や輪島の西光寺・重蔵神社など、能登・加賀での信連伝承や、由縁の社寺も少なくない。

 信連以後の長(長谷部)氏については、『吾妻鑑』に、長三郎左衛門尉朝連・同次郎左衛門尉久連・同四郎左衛門尉・同掃部左衛門尉・同兵衛次郎・同雅楽左衛門尉政連など長一族の名前が、鎌倉時代を通して多く見えており、能登長氏の朝連・政連をはじめ、御家人長氏一門が、全国的に分流していたことがうかがわれる。

(図録長家史料 長谷部信連と能登長氏)より
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